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自信・自分への信頼 18-2 [自信・自分への信頼]
生きるという事はゲームなのです^^
景色も変わらず、ただ、ひたすらに真っ直ぐ走るだけのゲームがあったと想像してみてください。何もかもが満たされた簡単なゲームほど退屈な物はありません。すぐに飽きてしまうでしょう^^;
では、障害物競走を想像してみてください。網を潜ったり、平均台を渡ったり、小麦粉に埋もれた飴を探したり、色々な障害があるから面白いと思いませんか^^
私達は自分がゲームを楽しむために、自分に必要なゲームの舞台も全て選んで生まれてきたのです^^
ところが、生まれてきた「自分」はゲームのルールを知りません。知らないと言うより、「ルールを忘れて生まれてくる」という約束になっているのです。
なぜって?
面白いからです^^
答えを知っているクイズを出されても、そんなに面白いものではありません。クイズやなぞなぞを出されて「あ、その答え知ってる」なんて経験はありませんか? 知らないから、忘れるから、面白いんですね^^
ゲームのルールは簡単です。「思考が実現する」「自分が思ったとおりになる」という事です。「自分が強く関心を示した思いに、現実が引き寄せられてくる」という事です。
このルールは不変です。そして誰も教えてくれません。自分で経験して学んで気付いていくしかありません。
自分がサッカーというゲームの中で遊んでいることに気付かずに、思わずボールを手に取ると、ファウルを取られます。すると、「なんで自分だけが」という思いに捕らわれます。
実際に経験して、自分でルールを学んで、「ああ、なるほど。ボールを手に持ったらいけないんだ」と気付くまで、何度でも同じ事を繰り返すかも知れません。
ルールを知らずにゲームをしているので、不都合に感じるのでしょう。
つまり、全てスタディ。私達は、「自分の思いが実現する」という事を気付き、思い通りの人生を思い通りに生きる為に、必要な障害物も全てを用意して生まれてきたのです。
自分が不都合に感じる出来事は、ルールに気付くために、生まれる前に用意しておいた、自分のためのイベントなのです^^
どのような思いで、どのような結果を引き寄せても、自分に解決できない問題は何一つ起こりません^^
なぜ、今の親を、兄弟を、妻を、夫を、子供を、その家庭を選んだのか、答えが出たでしょうか^^
自信・自分への信頼 18-1 [自信・自分への信頼]
愛が満たされずに育ったり、「甘え」が満たされずに育つと、大人になってからも、人を上手く褒めることが出来ません。「人に愛されるには、何か特別なことをしなくてはいけない」と思い込みます。
な~んて書くと、「自分の育った環境が悪かった」「親が悪いんだ」「家族に恵まれなかった」等と考えてしまうでしょうか^^
人生劇場を思い出してみて下さい。「自分」は観客席から舞台上の出来事を見て、「面白そうだ。自分も舞台に上がって演じてみよう」と思い、実際に舞台に立ちます。見ているだけでは物足りなくなって、舞台に立つ事が「人として生まれる」という事です。
私達は観客席から舞台上の出来事を見て、親も家族も友人も色々な環境も全て選んで生まれてきたのです。
ところが、大方の人が「子供は、親や家族を選んで生まれてくることが事が出来ない」「自分で選べるなら、もっと裕福な家庭を選んで生まれたのに」等と考えてしまいます。
何の為に満たされていない環境を、わざわざ選んだのでしょう? あなたは何故、今の親を、兄弟を、妻を、夫を、子供を、その家庭を選んだのですか?
自信・自分への信頼 17-3 [自信・自分への信頼]
大方の人が、本来の形を知らずに物事を見て「そういうものだ」と思ってしまうことがあります。
三角錐は、見る人の視点によって、円にも、三角形にも、扇形にも見えます。いつも同じ方向からしか眺めていなければ、いつまで経っても三角錐だとは気付くことが出来ません。
丸? 三角? 扇?
記念写真で、自分が何処に写っているかを真っ先に探すように、自分の姿しか見えていないのかもしれませんね^^ 自分の見たい物しか見てといえます。
「こんな病気になったらお終いだ」「妻がこんなふうに変わってくれたら」等と、相手や物事に対して「そういうものだ」という思い込み(ある決まった見方しかできない事)が、自分を苦しめます。
物事は全て公平です。相手や物事に対して、善し悪しをつけているのは、自分の中の「意見」です。相手は苦しくとも何ともなくても、自分の理屈で「”私”が勝手に苦しんでる」だけなのです。
この世の中で自分が知り、経験する出来事は、全て自分の思考の産物です。トラブルに感心のある人は、テレビを見ても新聞を読んでも、人の話しを聞いても、自分が感心のある物を見つけます。病気も、人間関係も、金銭問題も全てそうです。
テレビで悲しいドキュメンタリーを見て涙を流したり、友人のトラブル話しに同調して一緒に憤慨したり、こんな事に強く感心を持っていると、どうなってしまうのでしょう?
何度か話題にしてきましたが、人間の脳は、現実と想像の区別が付きません。梅干しを見たり、考えただけで唾液が出るのは、私達の脳が現実と想像の区別がついていない証拠です。
例え、テレビの中の出来事であっても、人から聞いた話しでも、脳は「他人の事」という区別ができません。イライラしたり悲しんだりすれば、脳は「それは自分の身に実際に起きた出来事だ」と受け取ってしまいます。私達は「わたし」と「あなた」という人称の区別が出来ますが、脳はその区別できません。
「妻が」「夫が」等と愚痴を言えば、その言葉を最初に聞いているのは自分自身です。他人に対するどの様な言葉も「私はこういう人間だ」と、自分に言い聞かせているようなものです。
繰り返し行って習慣となったものは、潜在意識が自動的に実行してくれます。自分が強く関心を示し、繰り返し意識している思考習慣や口癖は、ご飯を食べたら胃が消化を始めるように、運動をすれば汗が出るように、潜在意識が勝手に実行してくれます。
AとBのどちらを選べばいいのか。
どちらを選んでも結果は同じです。「今度こそは」と気をつけても、自分の思考習慣や口癖が現実になるように、潜在意識が勝手に選んでくれるのです。
これは良い情報ですね!^^
都合良く思って、どんな結果でも「ありがたい」と受け取り、笑顔でいれば、いつしかそれが習慣となった時、何を選んでも、どんな決断をしても、満足する結果を得ることが出来るという事です^^
身近な人や出来事に不都合を見つけた時は、これまでとは違った思考をしてみませんか?^^
物事は全て公平、善し悪しを決めているのは自分。何をどう思ってもいいなら、全て良しと受け取って、自分自身に(潜在意識に)、心地よい習慣を植え付けてしまうのです。
私の最近の流行は「バカボンのパパ」。雄自分の身の回りに何が起きても、赤塚不二夫先生の「天才バカボン」のパパを思い出すようにしています。そして
「これでいいのだ」
と、声に出して言ってます^^ うーん^^赤塚先生って天才!
「これでいいのだ」というキーワードを「ありがとう」と「笑顔」に結びつけて、何事もありのままを受け入れる遊びをしています^^
興味を持った方は、ぜひお試しあれ!^^
自信・自分への信頼 17-2 [自信・自分への信頼]
多くの人が、「人に良く思われたい」「重要な存在だと感じてほしい」「自分の存在を認めてほしい」等といった欲求を持っています。簡単に言えば「愛されたい」と思っているのではないのでしょうか。大方の人が人に認められたり、愛されたりする事で自分を確認しています。
舞台に上がったらまず何をするか。それは「自分はここに居るよ!」というアピールでしたね^^ 甘えが満たされていない人(愛が足りていない人)は、非行に走る、すぐに拗ねたり怒ったりする、会社の中で輪を乱す、そんな事をしてでも、「自分はここに居るよ!」というアピールをします。ありのままの自分を見てもらえないという気持ちが強いのでしょう。無条件に愛された経験が少ないのです。
人は、ありのままでいい
夫に不満を感じたり、妻に不満を感じていたりしませんか? 上司に、部下に、同僚に、友人に、ついつい不満を感じて陰で愚痴をこぼしていませんか?
それは、全て「自分の都合で他人が変わればいいのになあ」という条件を付けていますよ^^
「こんな事をしたら、あの人は気を悪くするんじゃないか」「私はどう思われているんだろう」等と推し量る気持ちを持っていませんか? これは相手を思いやる気持ちという見方のようで、実は、自分自身も相手にそうして欲しい、という姿ではありませんか?
自分が他人に見ている姿は、自分の姿です。人間は自分が一番興味のあること、関心のあることに強く魅かれます。
旅行に行きました。みんなで取った記念写真を貰いました。
誰もがまず「自分が何処に写っているか」を探しますよね^^ 自分が一番関心のあることは、「自分」のことです。そして、自分が見ている他人の姿も、相手の様々な面の、自分の一番興味のある事、「自分自身」なのです。
そのままでいいんです。
ありのままでいいんです。
人生は何でもあり。
何事もありのままを受け入れることが重要です^^
自信・自分への信頼 17-1 [自信・自分への信頼]
他人を思い通りに動かそうとする心が自分から自信を奪っていきます。勝手に相手に期待をして、思い通りの反応が返ってこない、こんな積み重ねが、「人生はそう都合よくいかないものだ」「山あれば谷あり」等という心を、自分の中に勝手に育てているのです。
自分が相手に見た姿こそ、自分自身の姿です。
もう一度、人生劇場について思い出してみてはどうでしょうか^^
今私達が生きているこの地球上の生活は、舞台上の出来事です。私達は観客席から人生劇場という舞台を見て、「面白そうだ。自分もこの人生劇場の舞台に上がって演じてみたい」と思って、舞台に上がります。これが「生まれる」という事です。舞台上で自分のやりたい事があって、親も環境も、自分で選んで生まれてきたのです。
舞台に上がったらまず何をするか。それは「自分はここに居るよ!」というアピールです。せっかく舞台に立ったのに、自分が誰にも気付かれない存在だとしたらどう思いますか? 「自分」に気付いてもらえるからこそ「自分」を確認できるのです。
赤ちゃんは、泣いたり、笑ったりする事で、親の気を引きます。親は無条件に子供を可愛がり、愛を注ぎます。しかし、子供が育っていく課程で、「大人しく、行儀良くしなさい」「勉強をしなさい」等、親の都合で、子供が親の期待どおりに動いた時に褒めると、子供は「愛を得るには、何か特別なことをしなくてはいけない」という学習をしてしまいます(自信・自分への信頼15)
何か自分の都合が満たされなければ、相手を褒められない、感謝できない、という具合になってしまうんですね。
逆を言えば、子供の頃の愛が満たされている人は、いつもニコニコと笑顔で、人を褒めたり、感謝することが容易です。人の良いところを見つけるのも得意です。
子供の頃の愛が満たされている人は、人を無理に動かそうとはしません。人を支配しようとしないので、「出来ない」「無理だ」という思考が極端に少ないのです。
「十分に持っている人が、譲ったり与えたりすることが出来るのは当たり前じゃないか」と思う人も居るでしょう。実は、満たされているから、「与える」ことができるのではなく、「与えることが出来れば、自ずと満たされていく」という事が(本人は知らなくとも、意識していなくとも)、幼い頃からの経験で身についているのです。
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