アスリートに学ぶ 3-3 [アスリートに学ぶ]
野茂英雄選手がドジャースに入る7年前に、2人目の日本人メジャーリーガーが誕生しようとしていました。
ところが、山本選手はドジャース所属の選手ではなくドラゴンズの選手。ドラゴンズとの契約を解消しないと、ドジャース以外の球団では投げられません。
球団にしたら放り出した選手。星野仙一監督は「面白そうだから行かせた」選手。山本昌選手の活躍の様子がFAXで届きますが、皆、半信半疑。
しかし、アイク生原さんから「ホワイトソックスからオファーが来ている」と連絡が入ると、球団側は、「山本があっちで凄いことになっているらしい。」と、星野仙一監督と本格的に協議に入りました。
この年のドラゴンズは4月終了時点で首位広島に8ゲーム差の最下位の成績でしたが。7月から驚異的な快進撃を続けて、まさに優勝争いのまっただ中にありました。
「優勝するにはピッチャーが足りない」
届いたビデオで、山本昌選手の成長ぶりを確認すると、山本昌選手の留学予定を打ち切り、急遽日本に呼び戻すことを決定しました(8月15日)
8月17日緊急帰国。8月22日に首脳陣にウェスタンリーグでその投球を披露すると、8月30日対広島戦で、5回から登板。2イニングを投げプロ初勝利。
9月16日に初先発、6連続奪三振を含む毎回奪三振の記録で初完投。 ペナントレース終盤の8試合に登板して2完封を含む5勝0敗、防御率0.55。この年ドラゴンズは、10月7日に8ゲーム差をひっくり返しての逆転優勝を果たします。
優勝に貢献した山本昌選手は、日本シリーズ第3戦で「秘密兵器」と呼ばれ、先発のマウンドに立っていました。西部ライオンズの工藤公康選手との投げ合いで結果は敗戦となりました。
翌年、大いに飛躍を期待され一軍入り。怪我はない。キャンプも上出来。しかし、開幕から勝てない試合が続き、再び解雇の恐怖が頭にちらつき始めます。
初勝利を挙げることができたのは5月27日、実に14試合目の登板でした。しかしこの試合以降もなかなか勝ちきれません。89年9月23日対阪神戦。星野仙一監督は「今日負けたらもう一度アメリカに行って来い」と、告げます。
この試合で敗戦投手となった山本昌選手は、シーズン途中にもかかわらず、9月、再びアメリカへと旅立ちます。9勝9敗に終わった今シーズンから、「来年は必ず10勝を」と、泣く泣く2度目の留学。
「神様が『もう一度アメリカに行きなさい』と言っているんだ。」
渡米後、アイク生原さんとカーブの習得に取り組みはじめます。
「良い投手はブレーキンブボールを持っている。スローカーブを覚えなさい。ただしこのカーブは3年かかるよ。」
山本昌選手の球を、アイク生原さん自身がミットを構えて受けました。3年がかりでカーブをマスターした山本昌選手は、93年シーズン途中、鎖骨骨折というアクシデントも重なり、1ヶ月戦列を離れたにもかかわらず、17勝を挙げ最多勝と最優秀防御率の二冠を獲得。翌94年は最多勝利投手、最優秀投手賞、沢村賞、ベストナイン。ついに球界を代表する投手に登りつめました。
しかし翌年95年、またしても山本昌選手に困難が襲います。左ひざの故障。この年わずか2勝。シーズン途中で表舞台から姿を消し、オフには手術に踏み切りました。
「もう終わりかなと思った。走ることができなくなったら野球人生も終わると感じた」
と言う山本昌選手。
表舞台に立ってはやってくる困難。しかし山本昌選手は、諦めませんでした。
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